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生物多様性コラム

人と自然の共生を考える Harmonious Co-existence between Nature and Mankind

岩槻邦男
兵庫県立人と自然の博物館館長、東京大学名誉教授

 はじめに——生物多様性の持続的利用

一庫景観2.JPG  1992年に採択された生物多様性条約では、
 生物資源の持続的に利用することが目的の
 中心に据えられている。そのための活動は
 既に20年にわたって国際的な協調のもと
 に進められているところであるが、それにも
 関わらず、今もなお地球上の生物多様性が
 健全に維持されている状態にはほど遠い。
 人間活動の地球環境に及ぼす負の圧力が
 いっこうに軽減しないためである。





 生物多様性の持続的利用という目的を達成するためには、現代人類は自然とどのように接するべきであるか、わたしたちの基本的な生き方について慎重な考察が求められる。持続的な利用といういい方は、「万物の霊長である人」が「自然の産物」を利用する際には、その産物をいつまでも利用可能とするような計画性が必要である、という姿勢が顕著である。利用する資源を経済価値で量り、人為的な操作によって付加価値を高めて資源の消費を増大させることが、消費は美徳であるというような観念を育ててきたが、この場合でも、自然の産物は採取のための経費がかかるだけで、原料は無料であるという考え方が広まっていた。そうやって、進んだ技術を駆使して自然の産物を効率的に利用したために、地球上の有限の資源に大きな圧迫を加えることになった。

 地球環境の劣化の思わぬ展開に注目され、資源の簒奪に歯止めをかけようと、reduce, reuse, recycleの3Rの推進が唱えられるようになった。しかし、ここでも、経済価値が重んじられる結果、どちらが経済的に有利であるかとの計算が先行し、経費のかかる活動の推進は困難という状況が顕在している。物質・エネルギー志向の生き方が顕著にあらわれ、物質的な豊かさこそ幸福の条件であるとする考えが先行する。しかし、この生き方を継続すると地球環境の劣化に歯止めをかけることは不可能なのではないかとさえ危惧される。

 ここでは、人の生き方life-styleを基本的に転換する可能性を模索することで、生物資源の持続的利用を図る指導原理を見出したい。しかも、わたしたち日本人の伝統的な生き方のうちに、そのための大切な知恵があったことを思い出したいものである。


 「もったいない」のこころ

 ケニアの故ワンガリマータイさんが日本語の「もったいない」を世界語に拡げて下さったが、この言葉、最近では「そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい」という意味で使われる。この定義は『広辞苑』第6版から借りてきたものだが、ここでは言葉の定義の第3番目に(だいぶ派生的に)置かれている。もともとの意味は、勿体は物体であり、ものの本体をさす言葉だから、先の定義でいえば、1番目は「神仏・貴人などに対して不都合である。不届きである」、2番目は「過分のことで畏れ多い。かたじけない。ありがたい」である。

 わたしが幼なかった頃、母の実家で食事をしていると、間違ってこぼした2粒3粒のご飯粒について、祖母が、「ご飯をこぼして、もったいない、もったいない」といいながら拾ってくれた。2粒、3粒のご飯粒に、それほどの経済価値があるというわけでもないのに、たいへん気にして拾い上げてくれたのである。さらに、もったいないには必ず南無阿弥陀仏がついてもいた。もったいないのは、そのものの値打ちが生かされず無駄になるのを惜しむ気持ちというよりも、すべての物体は神仏からの授かり物であり、そのものを軽率に扱うことは恐ろしいことであるという考えからの注意だったのである。


 江戸時代のreuse, recycle

ムニンツツジ.jpg 勿体ないの考えが現実に生かされていたのは江戸の街の清潔さだった。江戸時代の後半、江戸は百万都市になっていた。同じ頃、パリやロンドンも百万都市だったが、江戸の街はパリやロンドンよりはるかに清潔だったという。

 江戸では人々がすべての勿体=物体を大切にした。たとえば、着物は、汚れると洗い張りをして仕立て直された。何度も洗っていると縫い目が傷んでしまうので、身頃を狭めて子供の着物に仕立てた。それにも使えなくなると、布をパッチ状に縫い合わせて布団の表などに利用した。それも駄目なら、幼児のおむつに使ったり、やがて雑巾にされた。雑巾がすり切れてしまうと、乾かして燃料の足しに使い、灰は肥料とされた。お米のとぎ汁は、庭の植木への散水に使われた。およそ、廃棄物と呼ばれるようなものはでてこなかったのである。ごくわずかのゴミは、江戸では集積される場所が決まっており、集めて埋め立てに使われ、土地の造成に役立てられた。

 排泄物だって廃棄物ではなかった。これもまた勿体だから活用が図られたのだった。集めてボートで川をさかのぼり、関東地域の農家に運ばれ、肥料として利用された。育った農産物はふたたび江戸に運び込まれたのである。もちろん、衛生観念は今と違っていたが、それは時代の違いである。わたしが子供の頃でもまだ農村では人糞尿をふつうに肥料に使っていた。江戸の人たちは貧しかったから、糞尿さえわずかの金に換えたという解釈もあるようだが、パリやロンドンでは人民が豊かだったから糞尿垂れ流しでよかったというのだろうか。


 人と自然の共生
柏原八幡山.jpg 日本列島に住みついたわたしたちの祖先は、豊かな生物多様性に恵まれて暮らしていたが、同時にまた災害列島といわれるほど頻発する自然災害にも耐えてきた。列島の開発にしても、ごくわずかの平地と水利のよい谷地を伐り開いて農地をつくっても、(現代に至ってなお)列島のうちの5分の1ほどの面積を利用したに過ぎない。しかも、神の住処である森を伐り開いたあと、必ず神の居場所としての森の依り代を残した。後にそこに神の住居である屋代→社を造ったので、依り代の森は鎮守の杜と呼ばれるようになった。

 もちろん、人口の増加にともなって、もっと資源が必要になった。村の後背地の丘陵地帯から、薪炭材や、補助的な資源の狩猟採取が行われた。定期的な薪炭材の収穫が、里山の雑木林をつくりあげた。それでも、列島の約半分は奥山として残され、神の住処として大切にされてきた。神=自然の奥山と、人が住まわせていただく人里の間では里山が緩衝地帯となり、野生の動物たちは里山へ出てきても、人が活動する昼間は音も立てずに静かにして、人が山を下りてから彼らの生活を楽しみ、人と自然の共生が見事に演じられてきたのである。


 豊かさを保ちながらの自然との共生

 日本列島では長い間人と自然の共生が維持されていた。明治維新以後に西欧に追いつけ追いこせの富国強兵路線を求め、西欧文化を一途に崇拝してきたために、それまで中大型の動物を1種も絶滅させずに生きてきた日本列島でも、種の絶滅に象徴されるような生物多様性への圧迫が強まった。絶滅危惧種の現状は、正確に生物多様性の動態を象徴するモデルとなる。地球の持続性を求めるなら、生物多様性に及んでいる危機を防がなければならない。それは、言葉で問題を提起することではなくて、すべての市民の自覚を促し、もののありがたさを認識し、自然と共生する生き方とは何かを模索することである。

 少し前には日本でも結構意識の高まっていた生物多様性保全の意識が、ここへ来て忘れ去られようとしている。さまざまな課題への対応に追われる日々ではあるが、生物多様性の持続的利用を図り、そのための自然との共生を模索することは現代人に課されたもっとも重い課題であることを万人が認識するようであってほしい。生物多様性の持続的利用は、何も不自由を偲んで獲得するものではない。文明のもたらす富を正しく享受し、すべての人がこころ豊かな日々が送れる地球を、わたしたちの地球上に実現したいものである。


写真1  伝統的な里山景観(兵庫県川西市黒川地区) 今でも菊炭が生産されているので、周期的な伐採によって、斜面はパッチ状の模様を見せている。典型的な里山景観は今では見られなくなり、中山間地では里山放棄林が展開する。

写真2  ムニンツツジ(小笠原父島原産、東大植物園植栽) 過剰な採取によって危険な状態に追いやられていたが、東京大学植物園で栽培増殖され、原産地へ植え戻しもされている。

写真3  鎮守の杜(兵庫県丹波市の八幡山) 筆者が幼い頃父に手を引かれて初詣をした氏神様とそれを覆う森。

 岩槻 邦男(いわつき くにお)氏プロフィール

 
1934年兵庫県柏原町(現丹波市)生まれ。京都大学理学部植物学科卒、同大学院修士および博士課程修了、理学博士。京都大学、東京大学、立教大学、放送 大学教授などを歴任、(社)日本植物学会などの学協会会長や日本学術会議会員、環境省中央環境審議会委員、ユネスコ国内委員会委員なども務めた。現在、 兵庫県立人と自然の博物館館長、東京大学名誉教授など。

1994年に「植物の多様性の解析およびその滅失に関する保全生物学的研究」により日本学士院エジンバラ公賞受賞、2007年に文化功労者として顕彰。

主な著書に、生命系—生物多様性の新しい考え(1999岩波書店)、日本の植物園(2004東京大学出版会)、生命のつながりをたずねる旅(2012ミネルウ゛ァ書房)など

兵庫県立人と自然の博物館 : http://hitohaku.jp
 

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