English

生物多様性コラム

生物多様性とは地球の動的平衡 ーオイコスの美ー

福岡伸一
青山学院大学 教授

 

私は生物学者として「生命とは何か」という問題をずっと考えてきました。遺伝子や細胞などミクロなレベルで研究を進めてきましたが、基本のモチーフはこの問いかけでした。DNAの二重ラセン構造が発見された20世紀半ば以降、メカニズムとして生命の理解が進みました。そして生命とは何か、という問いに対する答えは、自己複製するシステムである、ということになりました。しかし、私は21世紀のいま、生命とは何か、とあらためて問い直されたとしたら、それは、「動的平衡である」と答えたいと考えるようになりました。

 

 自己複製のメカニズムにのみ焦点をあてるのではなく、生命が持つ柔軟性、可変性、回復力、応答性などを中心に生命を捉えなおしたいのです。その答えが動的平衡です。

 

 生命は絶え間なく動きながらバランスをとっています。動きとは、生命内部の分解と合成、摂取と排出の流れです。これによって生命はいつも要素が更新されつつ、関係性が維持されています。ちょうどジグソーパズル全体の絵柄は変えず、しかしピースを少しずつ入れ替えるように。これが動的平衡です。生命が動的平衡であるがゆえに、生命は環境に対して適応的で、また変化に対して柔軟でいられるのです。

 

 動的平衡は生命の内部だけでなく、生命の外部、生命と生命の関係性についても言えます。つまり地球環境全体もまた動的平衡なのです。

 

 地球上の生命はちょうど優秀なサッカーチームのように、物質・エネルギー・情報を絶えずパスし合っています。例えば植物は、他の生物が食物からエネルギーを取り出すときに呼吸中に排出する二酸化炭素を、太陽エネルギーを使って酸素と有機物に戻してくれます。それを他の生物が受け取って活動し、そこからまたパスが繰り出されます。その循環が滞りなく流れている状態が、地球環境にとって健康な状態といえます。

 

 パスを出すプレーヤーがいろいろなところにたくさんいて、パスの織りなす編み目が複雑であるほど、その循環、すなわち地球環境の動的平衡は強靭なものになります。生物多様性が大切な理由はそこにあるのです。生物多様性とは単に生物がたくさんいればよいということではなく、プレーヤーとしての相互関係が重要だということです。

 

 

007[1].jpg

地球上の生物には、すべて「持ち場」があります。私は子どもの頃、昆虫少年でいつも蝶を育てていました。アゲハチョウは柑橘系、キアゲハはニンジン、ジャコウアゲハはウマノスズクサと、蝶の幼虫の食べる草は決まっています。地球上の資源は有限なので、生物はみな自分の持ち場を決めて棲み分けを行い、無益な争いを避けているからです。生命誕生以来38億年のあいだに、せめぎあいながら選んだ持ち場をみんなが守ることで、地球の循環を滞りなくし、動的平衡を支えているのです。

 

 この持ち場のことをニッチと呼びます。ニッチ市場、のように、スキマみたいな語感で使われていますが、もともとは生物学用語。ある種が生態系の中で分担している固有の棲息環境のことを指します。ネスト(巣)という言葉はニッチを語源としています。生物はニッチ間で、物質・エネルギー・情報のパスを繰り返しています。それはあるときは食う・食われるの緊張関係であり、また別のときは呼気中の二酸化炭素を炭水化物に還元し、排泄物を浄化してくれる相互依存関係でもあります。つまりすべての生物は地球の循環のダイナミクス、すなわち動的平衡を支えるプレーヤーといえます。プレーヤーが急に消滅することは、その平衡を脆弱にし、乱すことを意味します。

 

 蚊やゴキブリのような「害虫」は人間が都市生活をする上で勝手にそう名づけているものです。確かにマラリアの媒介にある種の蚊が関わっていることは確かですが、すべての蚊やゴキブリがそのような問題を持っているわけではありません。彼らは人間がこの世界に現れる以前から地球上に棲息していた先住者です。そして捕食者や分解者、あるいは他の生物のエサとして、目立たないながら何らかの役割=ニッチを地球環境の中で分担していたはずなのです。地球の動的平衡を支えていたのです。生態系の中でそれぞれでニッチを守るプレーヤーの退場がこのまま急速に続けば、地球の動的平衡は積み木崩しのようなカタストロフィーに至る可能性があります。

 

 長い進化の歴史の中では、新しい生物種が現れ、古い生物種が絶滅することはいくらでもありました。しかしここ100年ほどのあいだに起きている生物種の絶滅の多くは、自然に起きたことではなく明らかに人間の諸活動の結果、生じたものと考えられています。たとえばカワウソ。乱獲や都市化による生息地の減少、エサとなる生物の減少などが主因とされます。

 

 あるいは二酸化炭素の問題もそうです。今、二酸化炭素は環境にとって目の敵にされていますが、それ自体はゴミでも毒でもありません。地球の循環の一形態です。しかしその循環が人為的な要因で滞っているのです。私たちが化石燃料を燃やしすぎ、一方で、緑地を減少させてしまっています。この結果、地球の動的平衡に負荷がかかっているところに問題があるのです。

 

 人為的な要因によって、地球の動的平衡が乱されることに対しては、人間がその責任を負わなければなりません。そこに生物多様性を保全することの理由があるのです。

 

 

 オイコス(oikos)という言葉をご存じでしょうか。エコ(eco)という言葉の語源となったギリシャ語です。もともと、所在、すみか、家、生息地、といった意味でした。先に記したニッチと似た言葉です。

 

2009 08 07_0900s.jpg

 そのオイコスが、だんだん「そこに共に生きる仲間」という意味に広がっていったのです。仲間の範囲を生物全体に広げて考えると、そこに必要なのは、oikos + logos (論理)ということになり、ecology エコロジーという言葉が生まれました。また仲間のあいだの交流の規則が必要だ、というふうに考えたとき、oikos + nomos (規則)=economy エコノミーという言葉も生まれたのです。

 

 つまり、端的にいうとoikos とは生きるということと同義語です。そしてエコ(オイコス)の原点は、他の生命をふくめた自分たちのすみかのあり方を考えることということになります。

 

 17世紀、デカルトからはじまった思想は、人間の理性の優位性を信奉し、世界のあらゆる因果律を制御しようする考え方でした。人間以外の生物はみな機械的なものだとみなしてどのように利用してもよいという極端な思考が生み出されました。これが多かれ少なかれ、私たちの現在の思考の底流に流れていることは否定できません。そのパラダイムはここにきてやはり袋小路に至っているといわざるをえないでしょう。

 

 地球環境と生物多様性は、人間の専有物でもないし、人間のためだけの資源でもありません。生物の多様性は、ヒトがこの世界に現れるずっと前からこの場所に、動的な平衡としてありました。にもかかわらず現在、人間はその取り合いを繰り広げているわけです。

 

 大切なことはシンプルです。世界に動的な平衡を回復しなくてはならないということです。あまりに専有(エゴ)に走り過ぎた思考から、もうすこしだけ共有(エコ)へ、パラダイムをシフトしなくてはならないということです。共有は平衡のとれたバランスであり、バランスには必然的に美があります。私たちが自然を見て、それが美しいと思えたとき、そこには何がしかの釣り合いがあります。動的平衡の精妙さ。私はそれをオイコスの美と呼びたいと思います。

 

 

 福岡伸一(ふくおか しんいち)氏プロフィール

 

生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学教授。サントリー学芸賞を受賞し、72万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)など、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著作には定評がある。ほかに『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、『動的平衡2』(木楽舎)、『遺伝子はダメなあなたを愛してる』(朝日新聞出版)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』(文春文庫)、『生命と記憶のパラドクス』(文藝春秋)など、著書多数。

また、フェルメール好きとしても知られ、フェルメールの全作品を巡る旅の紀行『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、朽木ゆり子さんとの共著『深読みフェルメール』(朝日新書)を上梓。最新のデジタル印刷技術によってリ・クリエイトした、フェルメール全作品を展示する「フェルメール・センター銀座」の監修および館長もつとめる。

 

English