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生物多様性コラム

生き物のにぎわいこそ暮らしの色どり:
古代湖・琵琶湖の生物多様性と文化の多様性

嘉田由紀子
びわこ成蹊スポーツ大学学長、前滋賀県知事、元日本環境社会学会会長

田んぼはつかみ取りのため池


「田んぼは、一夜にして、雨がプレゼントしてくれたつかみ取りのため池に早変わり。目ざとい子どもたちが、こんな遊び場を放っておくはずがありません。好奇心あふれる小学生の男の子たちは、学校へ行く前にフナのつかみどりをはじめることになります」。(今森光彦 2015年6月15日)


このコラム琵琶湖辺の大津生まれの今森光彦さんが、自らがなぜ里山写真家になったのか、その原風景をこう描いています。昭和30年代の琵琶湖辺、普段は琵琶湖に暮らしている魚たちが、雨降りに乗じて水田に入り込み産卵をする、その魚たちを追いかけるワクワク感が今森さんを里山の魅力に引き込んだとのこと。


今森さんが育ったのは大津市西部の尾花川町、今は大津京駅前のビル街の真ん中です。琵琶湖周辺に水田がひらかれたのは約2300年前ですが、周囲の水田が産卵場に、という光景は琵琶湖辺どこでも見られたものでした。下の写真は琵琶湖大橋近くの守山市幸津川町(さつかわちょう)の昭和30年頃の写真です。このあたりでもお年寄りは、「“ウオジマ”言うてな、雨が降ると琵琶湖からフナやコイがシマのように田んぼにあがってきて、それをつかんでフナズシをつくったもんや」と口ぐちに懐かしそうに話してくれます。


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その同じ場所、同じアングルで対比した写真が右下です。昭和40年代から始まった「琵琶湖総合開発」は琵琶湖を多目的ダムのように活用する水資源開発でもありました。琵琶湖水位を人工的に操作するため、琵琶湖と水田の間に堤防や水門をつくり、魚の通路を斜断してしまいました。その上、水田は用水と排水を分離して圃場(ほじょう)整備がなされ、この幸津川地区では、用水路は地下に埋め込まれ、水道のようにバルブで供給することになりました。排水路はあるものの、魚が琵琶湖から水田にあがる環境は完全に破壊されてしまいました。



生物多様性が生みだした文化の多様性


実は400万年の歴史をもつ古代湖・琵琶湖は、「進化の展覧会場」ともいわれるほど多数の固有種がくらす豊かな生態系を維持してきました。琵琶湖の在来の魚類の大きな特色は、すべての魚種が沖合では産卵せず(できず)、沿岸域のヨシ帯や水田、岩場で産卵する習性があるということです。琵琶湖固有種で、巨大なビワコオオナマズでさえ5-6月頃、沿岸の岩場で産卵します。今森さんのように子どもだけでなく、大人も含めて魚つかみに興じ、ニゴロブナなどを水田やヨシ帯でつかんで一年分のおかずを確保しました。またこれらの魚類は、地域の神社の祭りの神饌(しんせん)としてお供えされることも多く、宗教的・文化的にもなくてはならないものでした。


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環境社会学の分野では「自然は誰のものか?」という所有と利用の権限について、過去、数多くの研究がされています。特に1960年代末に「共有地の悲劇」というアメリカの生物学者が書いた論文の中で、「牧草地などの自然を共有にすると利己主義的な利用がはびこり、資源を食いつぶしてしまって資源枯渇を招くので、自然も個人所有にするべき」という主張をしてから、にわかに自然所有の論争が増えてきました。


私自身1970年代にアメリカに留学し、「自然の所有・利用」研究に着目し、帰国後、琵琶湖辺の土地・水・生き物利用の伝統的知識を調査してきました。その結果わかったのは、土地は個人所有ですが、水は地域共有資源であり、集落毎に共同管理をされてきた伝統が今に引き継がれていること、また水田の魚類は、個別の水田所有者のものではなく「つかんだもの勝ち」という“制限のない共有資源”として認識されている地域が多いこともわかりました。ここには土地の所有にかかわらず、誰もがおかずを確保して生活を維持するといういわば生活の必要性を求め、「多様な生態系」に根差した地域社会での「弱者保護・弱者共存」の思想が隠されていたことも見えてきました。つまり、土地・水・生き物、それぞれに所有と利用が「重層的に利用・管理」されていたのです。おかずとしての価値がないメダカやホタルなどの生き物は子どもたちの遊びの対象として重要な意味がありました。このような日本の農村の水や魚利用の文化的伝統が、村落共同体として維持され、産土神(うぶすながみ)の神社信仰にもつながっていました。生物の多様性が文化の多様性を維持していたわけです。


農業の近代化の掛け声の元、圃場整備がすすみ、農薬や化学肥料を大量に投下して、稲作の生産性だけをあげる「稲作単一化」の中で、水田の魚は邪魔者になってきました。魚も農薬と共存できず、水田や水路から魚類などの生き物が姿を消しはじめました。


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生物多様性国家戦略に文化の多様性を入れ込んでもらう


1992年のリオデジャネイロ環境会議でにわかに国際的議論となってきた生物多様性概念ですが、日本が条約を批准し最初の国家戦略をだしたのが1995年(平成7年)でした。この戦略をみて、私自身はかなりの違和感をもちました。それはアメリカ的な自然保護論が中心で、下の図でいうと「人間社会・文化 対 自然」という対立型社会モデルが基本であったからです。琵琶湖辺の水田農村での「生物の多様性が文化の多様性を担保」している状況などを詳しく調べてきた私自身は、その違和感を環境省や文化庁の委員会などで強く主張し、下の「重なり型社会モデル」に基づく国家戦力の必要性を強く訴えました。私以外にも、日本での人類学・民俗学・環境社会学などの研究蓄積が増えるに従い、2002年(平成14年)の新・国家戦略では、日本の文化の多様性は生物の多様性により維持・発展し、両者の共生関係こそ日本的自然観のエッセンスであることが明示的に示されました。琵琶湖辺の西の湖周辺のヨシ帯地域が第一号に指定された「重要文化的景観」もこの重なり型社会モデルの文化庁バージョンともいえます。


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水田に魚を再びよびこむ「魚のゆりかご水田」プロジェクト


1980年代末から準備をしてきた琵琶湖博物館は、「湖と人間のかかわり」を研究・展示をする総合施設として1996年(平成8年)に開館しました。その直後に私自身がリーダーとなって始めたのが「水田総合研究」でした。水田の歴史・文化・社会、生態的特色を研究しながら、「うおじま」として産卵場であった水田の多面的機能を回復し、固有種の回復を図る一助にしようと、滋賀県当局に提案しました。当時すでに固有種資源はかつての20分の一ほどに減っており、特にフナズシ用のニゴロブナの資源枯渇は深刻でした。しかし、ここではかなりの抵抗がありました。すでに近代化農業を進めてきた県職員の発想としては、「水田は稲を育てるところ、水田に魚は邪魔、魚は水産課の仕事」という縦割り意識が強く、水田で魚を育てるという発想に至るにはかなり壁がありました。この壁を越えたのが、琵琶湖博物館の学芸員の研究成果でした。水田に放った数匹のフナの親魚から数万の稚魚が生れ琵琶湖に下ったという研究成果を公表したところ、農政担当の若い職員が地元の土地改良区と協力をして水田に魚道をつくりはじめました。2003年頃のことです。その時の私たちの呼びかけ戦略は「生物多様性の維持」ではなく、「高くなってしまったフナズシをもっと安く食べられるようにしよう!」という“くいしんぼ戦略”でした。この戦略はだんだんに浸透し、特に私自身、知事に就任した2006年以降は、県の農業政策と環境政策の目玉政策として力をいれてきました。


「魚のゆりかご水田」をすすめるにはまずは地元の集落や土地改良区の理解が必要です。かつてのウオジマを記憶している高齢者の方たちが湖岸の各地でうごきはじめ、今では50地区をこえる地域で進められています。積極的に参加してきた地域では、「五方よし」という表現がおのずと生まれてきました。「生き物によし」「琵琶湖によし」に加えて、魚が水田にいると「子どもたちが遊び」、「地域全体がにぎやか」になり、また魚が育つ安全水田の米ということで、ブランド米として「価格も高くうれる」ということもわかってきました。


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2015年、琵琶湖とその水辺景観が日本遺産に


2006年の知事就任後、私自身、琵琶湖にかかわる「水の宝」を発掘するように文化財保護課に担当者を置き、数年以上かけて100項目の「水の宝」を指定し、その宝にストーリー性をもたせる政策を進めてきました。結果、「祈りと暮らしの水遺産」として、2015年に日本遺産に認定されました。琵琶湖の生物の多様性がフナズシに代表される伝統的な食文化を育み、結果として地域の人たちの誇りの源泉となり、また観光資源としても価値づけがなされたことになります。2017年には、琵琶湖全体をフィールドとする「ぐるっと水の文化フェア」が開催される予定で、自然と人間社会が重なりあう環境共生モデルは、日本人以上に海外の人たちから注目されることが期待されます。


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 嘉田由紀子(かだ ゆきこ)氏 プロフィール

 

びわこ成蹊スポーツ大学学長、前滋賀県知事、元日本環境社会学会会長。


1950年埼玉県の養蚕農家生まれ。農本主義者の母に育てられた子ども時代に農業や自然の面白さに引き込まれる。中高の修学旅行で比叡山や琵琶湖にあこがれ関西へ。京都大学学生時代、人類の起源を求めたアフリカ探検で地球規模での水と人間の共生に関心。アメリカ・ウイスコンシン大学大学院への留学を経て、滋賀県琵琶湖研究所研究員として琵琶湖辺の水田農村で環境社会学研究を開始、1980年代に社会学・人類学の研究仲間と「生活環境主義」を提唱。1985年京都大学より農学博士を授与。1990年代に琵琶湖博物館の設立を提案、建設・企画・運営にかかわる。京都精華大学教員を経て、2006年に学問の成果を政治に活かしたいと滋賀県知事選に挑戦、全国で5人目の女性知事となる。「琵琶湖環境政策」「子育て・女性参画」「地域雇用・活性化」「“卒ダム”流域治水政策」「“卒原発”政策」などで新機軸を開き2014年7月、知事を勇退。現在、びわこ成蹊スポーツ大学の学長。地域の水文化・環境の再生や若者育てにより孫子安心社会づくりに励む。


著書に『いのちにこだわる政治をしよう!』(2013年、風媒社)、『知事は何ができるのか-「日本病」の治療は地域から-』(2012年、風媒社)、『生活環境主義でいこう!―琵琶湖に恋した知事』(語り、2008年、岩波ジュニア文庫)、『水をめぐる人と自然‐日本と世界の現場から-』(2003年、有斐閣)、『環境社会学』(2002年、岩波書店)、『水辺ぐらしの環境学‐琵琶湖と世界の湖から-』(2001年、昭和堂)など多数。

 

 

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