English

FROM Japanese

鎮守の森

名称未設定 1.jpg新幹線の車窓から田園風景を眺めたとき、水田に囲まれた小さな緑の島のような、こんもりした森をご覧になったことはないでしょうか。それが鎮守の森です。鎮守の森とは神社を囲むようにして存在する森林で、日本の稲作地帯などに広く同様の景観がみられます。

 

神社を遠景から見ると、鬱蒼とした森-鎮守の森-があり、その一端に鳥居があります。鳥居をくぐり参道を通ると、その奥に森に囲まれた神社の社があり、礼拝は森に向かってする形になっています。このことからも、多くの神社は社が先に在ったのではなく、森に社が建てられたことがわかります。これは、仏教伝来以前の日本において、森林や、山岳(富士山など)、巨石など自然そのものが信仰の対象になっていたことと深い関わりがあります。鎮守の森は、こうした崇敬の対象とされてきました。

 

また鎮守の森は、祭事や年中行事を行う地域住民の交流や慰安の場でもありました。集落を守り自然の恵みをもたらす「鎮守様」として、鎮守の森は、畏敬の念を抱く対象でありながら、また同時に、日常生活に密着した森林として日本の農村社会に存在してきたのです。

 

しかし、集落ごとに多く存在した鎮守の森も、明治39(1906)年の神社合祀令以降、多くが伐採されました。南方熊楠(1867-1941年、博物学者、生物学者、民俗学者)はこの伐採による大規模な自然破壊を危惧し、自然保護運動を「神社合祀反対運動」と合わせ開始します。鎮守の森には、未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあったのです。


「千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候」(和歌山県知事 川村竹治宛書簡 1911年11月19日)


南方は、あらゆる生命が互いに繋がっていて、どの生物もその生命の繋がりのなかで生存しているということについて、日本で初めて「ecology」という言葉を使って説明し、生態学的見地から鎮守の森の保護を訴えました。また、民俗学的見地からは、鎮守の森の破壊によって住民の信仰、文化、習慣、交流の場が毀損されると訴えたのです。南方の訴えはやがて世論を動かし、後に貴族院で「神社合祀無益」と決議されてからは、神社合祀が推進されることはなくなり、鎮守の森も伐採を免れることができました。

 

鎮守の森はこのようにして保全され、その森林植生は、その地域本来の植生を残していると考えられています。周辺の自然が破壊されていることが多い現在では、鎮守の森が、かつてのその地域の自然を知るための手掛かりとなっていることも多く、そのような意味から、日本の森林生態学において鎮守の森は重視されてきました。

 

しかし1950年代以降は鎮守の森そのものに対する親しみや崇敬の念も次第に薄れ、高度成長期(1950年代~1970年代)の土地開発によって、その数は激減しました。こうした開発による環境変化は、植物群落と動物群集に様々な影響を及ぼしていると考えられます。

 

鎮守の森は様々な経緯を経ながらも、日本人と自然との関わりの中でその姿を現在に留めています。

 

(谷本理恵子)

English