ヒマラヤ: 危機に瀕する楽園

カマル・バワ

アショーカ生態学環境研究トラスト(ATREE、インド)代表
マサチューセッツ大学 ボストン校 特別教授
2014年 The MIDORI Prize for Biodiversity 受賞者

荘厳なヒマラヤは今、増え続ける人口による経済的需要、インフラ開発、地域紛争、土壌劣化、気候変動の攻撃を受けており、それは人類に深刻な影響をもたらしている。

日本の人々は、常にヒマラヤに魅了されてきた。神々の棲家、雪の大地、そして地上最後のシャングリラ。日本の山々とヒマラヤには多くの植物が共通して見られ、どちらの地域にも仏教が浸透している。したがって、日本の研究者たちがヒマラヤについて多くを書いていることは驚きではない。

このように、ヒマラヤとその生息環境の豊かさ、文化、言語、民族への関心が共有されていることは、世界で最も重要な山脈で進行している地球環境変動の課題に取り組もうとする、日本とヒマラヤ周辺国の人々の協業にとってきわめて重要といえる。

生物多様性

ヒマラヤ地域(Greater Himalaya)ほど豊かな生物多様性が見られる場所は、おそらく世界中のどこにもない。ヒマラヤ山脈のインド側だけでも、世界34ヵ所の生物多様性ホットスポット(世界の他のどこよりも種の数が飛び抜けて多い地域)のひとつを構成している。チベット高原から中国南東部まで広がるヒマラヤ地域およびインドに見られるすべての種のうち、3分の2が山岳部に生息し、地球全体の生物多様性のおそらく10%がここに存在する。ヒマラヤ全体に生息する動植物の種類が並外れて豊富だとすると、ヒマラヤ東部ではそれがひときわ目覚ましい。シッキム州はわずか7,096平方キロメートルの小さな州だが、標高280メートルから8,585メートルまでに及ぶ高低差があることから、低地半常緑林から高山草原帯まで、ヒマラヤ全体で遭遇しうるほぼ全種類の生態系の実例を州内で見ることができる。面積はインド全体のわずか0.0025パーセントにも満たないが、国内の動植物種の20パーセントが存在している。

インドの中国国境付近、高度5,500mにあるグルドンマ湖
(サンデーシュ・カドゥール撮影)

ロードデンドロン・キンナバリウム(Rhododendron cinnabarinum)の花に受粉するアカオタイヨウチョウ
(カマル・バワ撮影)

ヒマラヤ東部における生態系の豊かさは、とても言葉で言い表すことはできない。世界の哺乳類種の9パーセントがひしめいており、ロイヤルベンガルトラ、一角サイ、アジアゾウ、レッサーパンダ、ユキヒョウ、そして大型のネコ科動物としては最小のウンピョウなど、特徴的な種が含まれている。また、無限と思われるほど多彩で美しい鳥類には、ベンガルショウノガンベニキジ、亡くなったダライラマの生まれ変わりとして崇拝されるオグロヅル、ヘキサン、アカオタイヨウチョウ、そして巨大なくちばしを持つ10種のサイチョウが含まれる。

これと同じことは、爬虫類、水生生物、両生類の種についても言える。また、地域の何千という植物種には、息を飲むほど多種にわたるエキゾチックなラン、シャクナゲ、サクラソウ、 カンアオイがある。コブラリリー、ブルーポピー、優美なホワイトバットフラワーなど、有名な花も多数ある。さらに、山岳部は薬草の種類も非常に豊富である。たとえば、見た目が不気味なセイタカダイオウは、開花すると高さ2メートル近くになり、歩哨番の幽霊のように山腹にそそり立つが、その希少な薬効成分により珍重されている。

おそらく(文字通り)最も希少なものは、伝説的な冬虫夏草だろう。このキノコと蛾の幼虫の複合体は、古来より中国でがんなどの様々な病気の治療に用いられてきた。しかし、媚薬としての評判と中国人をはじめとするアジア人社会の購買力の急増により、世界で最も珍重されるキノコとして新たな地位に押し上げられ、価格は同じ重さの金の2倍になった。その争奪戦は対抗する山村間の暴力にまで発展した。人々は豊かな収穫を求めて争うが、多くの場合は無残な結果となっている。これは、今までのところの話にすぎない。ヒマラヤ東部では、いまも常に新たな種が発見されている。世界自然保護基金による最近の報告書によれば、1998年から2008年までの間にこの地域で353の新種が発見された。その中には、ネパールで初めて発見されたサソリを含む61種の無脊椎動物、16種の爬虫類、14種のカエル、14種の魚類、2種の鳥類、そして2種の哺乳類などがある。遠隔地の生態系の多くは、まだ十分に調査されていない。アルナーチャル・プラデーシュ州は、地上で最も豊かな生態系のひとつと見なされているが、調査はほとんどなされていない。ミャンマーとの国境付近にも同様の地域が存在する。アルナーチャルマカクは、ほんの数年前に確認されたばかりであり、世界最小のシカであるホエジカ(Muntiacus putaoensis)は、1999年に初めてミャンマー北部で記録された。

祈りの旗がはためく中、プリムラ・カピタータ(Primula capitata)が咲き誇るインド、シッキム州ユムタン谷の高地牧草地
(カマル・バワ撮影)

脅威

ヒマラヤは、「第三の極」であるだけでなく、アジアの給水塔でもある。山脈は、アジア最大級の8つの河川の水源となっており、これらの川の流域に住む13億を超える人々(世界人口の5分の1)が、その水に頼って生活している。ここでは、食物、繊維、飼料、薪、薬草、授粉、気候および水の調節、炭素隔離といった生態系サービスが提供されている。また、生物多様性は、かけがえのない宗教的、精神的、美的価値を持っている。ヒマラヤの農業は、周辺の生物多様性と絡み合い、それに依存している。しかし、その豊かさの全容がまだ明らかになっていないというのに、この素晴らしい自然の生命維持システムは深刻な脅威にさらされている。

ヒマラヤの驚異的な生物多様性は、人口増加による経済的需要と気候変動の影響により失われつつある。また、森林伐採や農地への転用など、土地利用が他の用途に転換されることで、生態系が失われつつある。商取引のために種が採取され、生息地が分断化され、汚染、外来侵入種、病気により生態学的プロセスが混乱することによって、生物多様性は徐々に劣化している。
すべては、人間が引き起こしたものだ。

かくして、一角サイは、薬効があるとして乱獲され、生息地域の大部分で絶滅の危機に瀕している。ベンガルトラは、毛皮目的で狩られ、脅かされている。イエネコのサイズだがジャイアントパンダの遠い親戚であるレッサーパンダは、森林の生息地が縮小し、いまや生きた化石と見なされており、危急種に指定されている。新たに確認されたアルナーチャルマカクは、すでに絶滅危惧種に指定されており、1955年にようやく発見された世界で最も希少なコロブス亜科のサルの一種、ゴールデンラングールも同様である。

人口の急増と消費の増大は、自然生態系に過剰な負荷をかけるおそれがある。需要拡大に応える経済成長は、エネルギー需要を増大させる。中国とインドは、膨大な水源であるヒマラヤの両側に、現在の4倍の数となる約400基のダムを建設する構想を立てている。こうしたダム建設が、生物多様性を奪い、人々を退去させ、希少な川の生物をむしばみ、地震多発地帯では地震に関連するリスクをもたらす。さらに、無秩序な旅行産業、時代遅れの政策、天然資源の中央集権的統治による副作用がある。

気候変動

ヒマラヤでは、氷河が融解し、後退が進行しつつある。気候変動は、おそらく北極と南極を除けば、どこよりも急速にヒマラヤに影響を及ぼしているといえるだろう。

過去30年間に、ヒマラヤの平均気温は1.5°C上昇したと見られる。これは、気候変動に関する政府間パネルの予測をはるかに上回るものだ。降雨パターンも変化した。非モンスーン期の雨が減り、モンスーン期に度を超えた豪雨が突発的に降るようになっている。

ヒマラヤの小氷河は、多くが姿を消した。より大規模な氷河は、毎年10~60メートルという憂慮するべきペースで後退している。氷河融解水はしばしば、湖の氷河や氷堆石に囲まれた終端部まで流れ込み、最終的には流入に耐え切れずに決壊する。氷河湖決壊洪水(GLOF)は、過去25年間にネパールで20回以上、ブータンで5回起きている。1985年にネパールで起きたディグ・ツォ氷河湖決壊洪水では、ナムチェ水力発電所が流失した。1994年にブータンで起きたルゲ・ツォ洪水では、数十名が死亡し、86 km下流の町が大規模な被害を受けた。

また気候変動は、野生種に影響を及ぼしている。多くの植物の開花時期が早まり、生息域を変えて高度の高い場所に移動したものもある。山頂付近を生息域とする高山種は、どこにも行くところがないため、絶滅の危機に瀕している。モンスーン期以外の乾燥の進行は、農業生産高の低下をもたらすおそれがある。

収穫のパターンも変化している。一部の変化としては、生育期が長くなる、高地でも新しい作物を試すことができるなど、有益な効果をもたらしているように見える。しかし、生産者は、これまで知られていなかった雑草や病害虫にも直面している。蚊の高地への移動も、もうひとつの不吉な前兆である。人間にとっても、農作物や家畜などの他の種にとっても、病原媒介者が広がるおそれがある。このような広範囲にわたる気候変動にもかかわらず、生物多様性、水文学、人々の健康と暮らしへの影響は、いずれも十分に記録されないままである。政府や他の機関は、避けることのできない課題に取り組むための十分な準備ができていない。

環境変動は、人類に一連の課題を提示している。それに対して知的にも心理的にも立ち向かう準備が本当にできている者は、もしいたとしても、私たちのうちごくわずかである。この問題を緩和するためには、複雑性を備えたスケールの大きな先見の明とコミットメントが必要である。政府と市民社会がヒマラヤに広がる変動に取り組むためには、大量の財務的、技術的、人的資源を備える必要があるだろう。

 

テキストと写真は、博士とサンデーシュ・カドゥールによる著書 “Himalaya – Mountains of Life” (www.Himalayabook.com)から抜粋したもの。

カマル・バワ氏 プロフィール

カマル・バワ博士は、インド、バンガロールに所在する世界的なシンク・アンド・ドゥー・タンク、「アショーカ生態学環境研究トラスト(ATREE)」の代表であり、マサチューセッツ大学ボストン校で生物学の特別教授を務める人物である。バワ博士は、経済と生物多様性保全の両立に正面から取り組むことで、世界中の保全モデルとして役立つ重要なwin-winソリューションを生み出し、インド、コスタリカ、米国等、南北格差を超え、世界に貢献してきた。非木材林産物採取の持続可能性に関する彼の先駆的な仕事は、保全と人間の幸福な生活が同時に実現できることを実証している。

バワ博士の知的貢献は目覚ましく、生物多様性科学における保全研究は画期的なものである。博士は熱帯雨林の生態や進化について、それまで浸透していた概念を変える、樹木再生についての新しい手法を発見。熱帯樹木について新種の遺伝子マーカーを開発し、熱帯地方に広がる森林崩壊(森林の断片化)が生物多様性を枯渇させることを示した。また、保全のための新たなパラダイムやツールの開発、生物多様性ホットスポットにおける保全の優先順位特定によって、保全と貧困削減などの社会的目標の相乗効果を模索した。メンターとしては、2000人の学生と、30人の博士課程やポスドクの研究者を指導してきた。

バワ博士が1996年に設立したATREEは、そのユニークな学際的アプローチによって、政策提言にも携わっており、西ガーツ山脈のユネスコ世界遺産登録を主導した他、国立公園での採鉱の禁止、森林法の施行等を実施してきた。ATREEでは、80人の主要研究スタッフのうち27人が博士号を有しているほか、生物多様性分野の学際的な博士課程プログラムが運営されており、21世紀のインドの保全施策に必要となる人材開発が行われている。 ATREEはインドや開発途上国だけでなく世界にとっての研究、教育、政策機関のモデルを構築しており、ペンシルベニア大学のグループによって、アジアで第1位、世界で第19位の環境シンクタンクであるとの評価を受けている( 2011年および2012年)。

またバワ博士は、熱帯生物学協会の会長、国際的・学際的なジャーナル「保全と社会(Conservation and Society)」の創刊者・編集長、ナショナルジオグラフィック協会の研究調査委員会のメンバーを務め、保全科学、活動、政策にも影響を与えている。また、インドの生物多様性ポータルサイトを立ち上げ、同国の生物多様性の普及啓発にも寄与している。